映画みたよ〜!

見た映画の感想とか。

『映画大好きポンポさん』をみったぞ〜!手放しで絶賛はできないぞ〜!

映画大好きポンポさんの感想


 ※以下、完全にネタバレを含む。また、初めは原作と対比せず映画のみの感想で進めるが、途中で急に、原作との感想に切り替わる。というか、そちらがメイン。

 映画、を冠する映画であるから、厳しめである。



はじめに


 この感想を書く理由は、ぜひポンポさんを多くの人に観てほしいがためである。決して貶める意図があるわけでもなければ、筆者の意見にそうだよね!と一言で頷いてほしいからでもない。語りあいたいのだ。あなたのポンポさんの感想を読みたいのだ。  

 そこで、まずどういう立ち位置からの感想なのかを表明したく、筆者について紹介させていただく。


 筆者は映画大好きポンポさんシリーズが大好きである。

 ポンポさんの存在を認知してからは関連する漫画は発売日に購入し、そのどれをも何十回と読んできた、ポンポさん大好きな奴である。映画を指折り数えて待ち焦がれ、座席チケットを日が変わると同時に予約購入し、仕事帰りの初日に見に行った。鑑賞前にパンフレットとグッズを購入し、うきうきと着席した。座席から周囲を見回して、『悪天候の平日に来る連中だ。きっとポンポさんマニアに違いない』とかなりの同胞意識を勝手に持って、身近にいなかったポンポさん好きの存在によろこんでいた。そして映画が始まり、終わって、筆者は立ち上がって、彼らに言いたくなった。


 みんなこの映画どう思った!?

 

 できることなら声をあげてしまいたかった。社会情勢が違えばもしかして声もかけたかもしれない。それほどに、筆者には燻るものがあったのである。家に帰ってあのシーンやあのシーンを思い出し、なぜあれをいいと思ったのか、なぜあれをよくないと思ったのか、考え続けた。考え続けた結果、問いかけたいと思ったが故、それを、つらつらと書き連ねていくことにした。


 そもそもに、映画大好きポンポさんという作品自体が、突き詰め続けることから生まれる情念とも情熱とも形容し難いものを描いていると思っている。だからこそ、よかった、わるかった、という言葉からさらに踏み込むことこそが、この作品に敬意を表することであると思う。

 だからこそ。ポンポさんを突き詰めたが故に、批判的に評ずることも先に明記させていただく。


 前置きが長くなったが、以下に映画について綴っていく。また、これ以降は文体も若干変わる。



映画感想


 すごく作り込まれているし、総合的には良いと思う。だけど、ストーリー・キャラクター・背景等の情報を断片的に詰め込みすぎてるんじゃないかな?ジーン君の映画への執着なのか、ナタリーの女優へのみちなのか、アランの情熱の宿りなのか。その全てであって、これは夢を叶える話です、というにはどれもが突き抜け切っていないから、この映画が作中で言及する"ピースが足りない"状況に落ち込んでいる。


 まずは前半。マイスターの撮影に入る前までの感想。ここが特に情報が多かった。主要キャラクターの殆どが登場し、各々の生活の片鱗を見せるんだけど、キャラクターを理解する前に次から次へと情報が流れてきて、画面の焦点が定まらない。狙いとしては、キャラクターの紹介+ニャリウッドの街並み紹介があったと思うけど、書き込まれすぎた街並みや早すぎるテンポが、かえって解像度を下げていたよ。

 

 そこに入り込む過剰な演出。例えばナタリーがオーディションに連敗して、帰り道に落ち込むシーン。その際、元気を出すため顔をぐしゃっ、とさせるんだけど、この瞬間の顔だけがしわが多かったりで奇妙にリアルで、ポップな絵柄と合っていなかった。画調のずれが勝る。そうして元気をだした後、街中で突然笑い出すのも、声優の演技不足とあいまって奇妙だった。


 それからジーン君。バスからナタリーを見かけるシーンがある。この時、二人に接点はないけど、ジーン君は窓から見たナタリーに印象的なものを感じる。しかし、その人の特性を見極める審美眼がある、という強い設定をもつのは、むしろプロデューサーであるポンポさんの方なのだ。

 ナタリーへの着目ではなく、景色を含めたシーンとしての着目ではあったけど、流れとしてナタリーに着目しているようにも見える。その後に出てくる、出社したビルの中ですれ違うシーンも含めて。

 それをジーン君で演出するのは、ポンポさんの才能が霞むし、例えジーン君にもその才能があるとしても、順番が違う。先にポンポさんで見せるべきだった。


 それからミスティア。オープニングが終わってすぐ、マリーンの撮影のシーン。急に劇画というかホラー映画のこわばった、ギャグ?のようにも見える表情を浮かべたまま、それが背景のモニター画面に映されているシーンがある。

 この演出の意図は?

 マリーンのB級感をだすため、というのなら単純すぎるし、海に現れる巨大蛸と砂浜を逃げる水着の女性で既に十分に演出できていた。そもそも、他のシーンではマシンガンを撃って戦う役なのに、あえて画調を変えてまで、恐怖に引きつった表情をさせ続けるのは不必要だと思った。それに、ポンポさんは『女優を綺麗に撮れればいい』というようなことを言うのに、綺麗とは言い難くて、その画面が背景に残ってる間はひっかかりだった。

 

 次に声。ナタリーの声は女優になる役だから初々しい人を選んだと思うけど、単純に浮いていた。上記でも言ったような、街の中で笑い出すシーンが特に。いっそこのシーンは笑い声はやめて、がんばるぞー!だけにしたほうがよかったと思う。

 それから、これは演技がどうのというのでなく、主要女性の声の系統が似ているので、一人くらいもっと異なる声でもよかったと思う。例えば幼いポンポさんや初々しいナタリーとの対比として、ミスティアは大人びた女性でもよかったのではないか。ただ、全くあっていないでもなかったので、ここは難しい。


 ここまでがおおまかな前半の感想。後半の『MEISTER』の作成に移ってからは、すっきりとしてみやすくなったし、ここからは先に良かった点を挙げたい。


 まず、劇中劇の『MEISTER』。これは全般的に本当によかった。これで映画を一本作ってほしいとさえ。

 まず新しく登場するキャラクター。世界に名だたる俳優で、金髪にサングラスの似合う翁、マーティン。私のイメージでは白髪か銀髪だったけどこれはこれでよし。で、この役に大塚明夫さんの重く低く、されど通る声が非常にマッチしている。世界に名を馳せる指揮者で、帝王の名を冠するダルベールを演じるのに、説得力は段違いだった。マーティンが撮影に入った瞬間、重く暗いダルベールをカメラに魅せるシーンも、演技をするということの凄さが絵でも声でもわかった。

 撮影後、編集の妙を魅せるシーンは、編集前と後をジーン君がうまくやってのけるので、専門家でない人間にも編集の効果をわかりやすく示してくれる。単純に、すごい!と思った。




……と、つらつら映画について書いてきたし書きたいことはまだまだ山ほどあるけどけど、もう堪えきれないので原作との相違点への違和感にさっさと移る。また落ち着いた頃、2回目を見に行ってから、改めて映画については書くかもしれない。

 



 原作を基準に据えると、映画はあまりにわかりやすい解決手段、感動に走ってしまっている。これがまったく異なる作品ならよかった。けれど、これはポンポさんなのだ。それは最初に否定してたじゃない。B級で泣かせた方がって。それなのに。

 それにポンポさんの魅力は、苦悩解決に関して、先立の助言はあれど一人で立ち向かうところだと思ってる。特に、監督であるジーン君は。なのに、孤独ゆえ映画に執着し、同じ映画を攻略するまで何遍も映画を見て、編集作業にうすら笑いの興奮で向かうジーン君はいなかった。彼が吐き気を催した健全な有様だった。撮影現場ではみんなが意見を言い合ってた。解散したスタッフも微笑んで集まってくれた。協力の美しさ?作品とはみんなで作り上げるものだね?それもわかるし、いいシーンだとも思った。でも、それはポンポさんで描かないでくれ。やるにしても、協力の後のジーン君の孤独を強調してくれ。ナタリーと二人で編集のデリートを押す演出なんて要らなかった。ナタリーも応援するからと隣にいるなんて、ただ邪魔なだけだろう。本当に応援するなら、信頼して去ればよかった。一緒にいることの尊さ?それはジーン君のここまでの努力を否定する。一人の狭さの強さはどこへ。事故に遭おうが病気になろうが、ジーン・フィニは孤独に一人で編集作業に立ち向かうんじゃないのか。ポンポさんのためにとフォーカスを絞っても、眠るジーン君の枕元でポンポさん本人が呟く描写は要らなかった。それをもってまた作業に戻るのでなく、夢にまで映画を観て飛び起きて、編集作業に再び齧り付くくらいがよかった。狂気性が際立つのは映画に描かれない2巻以降だけれども、それにしたってジーン君は健全すぎた。仄暗い、ゼロかイチかがない。逃げ続けた先の映画監督なのに、映画しかないのに、苦悩を分かち合おうなんて美談はやめてくれ。


 あとナタリーの描写が嫌だった。前半でナタリーが女優になれずオーディションも惨敗している境遇に落ち込んで涙を浮かべるも、グッと堪えるシーン。原作に涙はないよ。原作にないからやるなと言うのではなくて、原作のいいコミカルさが失せてるんだよ。これ、これなんだよ!全体的に。

 MEISTERの脚本のくだりもカットしてたし。あそこでジーン君の変な真面目さとかポンポさんの読みを外すところとか出てくるのに。カットと言えば、ミスティアが人のテリトリーで食事するの嫌でサプリで補ってるのカットも残念。ストイックさが半減だよ。

 あとナタリーにセクシャルな描写を差し込んだことがだめ。ナタリーだからだめ。ミスティアならわかる。いいとかでなくてね。でも、ダルベールにアリアを歌うナタリーに、そういう描写は不要だった。

 ナタリーはリリーである。リリーは当て書きである。リリーは少年と少女どちらも持ち合わせた子である。だから、ナタリーも多かれ少なかれその少女で少年の要素があるのだろう。なのに、映画だとナタリーにセクシャルな描写をする。お尻の方から写して、急いで起き上がるときには胸の谷間もつける。原作ではそんな描写はないのに。原作では、寝転がるナタリーの腰あたりからシーツをかけているし、起き上がるときも谷間はない。パーティーのドレスだって上着を羽織ってほとんど肌が出ていない。ナタリーは星座を語り、瞳の輝く純真さを持つ子なのだ。なのに何故、そんな演出をつけたの?要らなかった。


 あと、これはもう映画作成着手後のオムニバスにあったシーンだから仕方がないけど、MEISTERのなかで、アリアを聴いて蘇ったダルベールが田舎から舞い戻った先で、リリーをエスコートするシーンは見たかったなあ。着席してたドレスアップしたリリーも見たかったなあ。



とまあ、まだまだ語りたいことは山ほどあるけど、鮮度を優先してここで止めておく。


とりあえずみんな映画を見て!そして原作を読んで!!


以上